室内空気とにおい
北海道立衛生研究所健康科学部生活保健科長 小林智


においの不思議

 キンモクセイの英名はフレイグラント・オリーブ。その名のとおり、花の香りは甘く強く、遠くからでも気付きます。キンモクセイは北海道ではあまり見かけません。しかし、その匂いは芳香剤として使われていたので、ある世代以上の方の多くがご存じのことと思います。でも、良い香りとしてではなく、トイレを連想する臭いとして感じている人が多いのではないでしょうか。かつて、トイレの芳香剤といえばキンモクセイの香りが当たり前だった時代がありました。
 当時、トイレは汲み取り式がほとんどで、その強烈な刺激臭に負けない強い香りのキンモクセイが多く使われていました。
 「におい」は一般に快いにおいを「匂い」、不快なにおいを「臭い」として区別していますが、以下では、「におい」と表記することにします。
 さて、においの実体は化学物質で、多くの場合は複数のにおい分子が混じった混含物です。キンモクセイの.においの実体はベータ−イオノン、リナロール、ガンマーデカラクトン、リナロールオキサイド、シス−3−ヘキセノールなどの化学物質の集まりです。人によってはキンモクセイのにおいからトイレが連想されるように、においには、そのにおいを嗅いだときの出来事と結びついて記憶される性質があります。
 においのある分子の種類は10万とも40万とも言われ、調香師などにおいのプロは数千種類のにおいを嗅ぎ分けられるそうです。
 においを感じるメカニズムを見てみましょう。におい分子が、鼻の奥にある嗅細胞の受容体に結合するとその情報が電気信号として脳に伝わり、においを認知・識別することになります。一つの嗅細胞には1種類の受容体しか付いていないことが分かっています。
 遺伝子の研究からにおいの受容体はヒトでは約350種類あることが明らかになりました。受容体の結合には曖昧さがあるようで、1種類の受容体は持定の構造の分子だけでなく、似た構造の分子ともその購造に見合った程度の結合をし、それに応じた強度の信号を送っていることがわかりました。こうして、約350種類の受容体の組み合わせで数千種類ものにおい分子を識別できることが分かりました。
 このにおいを識別する仕組みを明らかにした米国のアクセル教授とバック博士は、2DD4年に.ノーベル生理医学賞を受賞しました。
 においの好みも時代によって移り変わり、トレンドはキンモクセイからラベンダーや柑橘系に移り、今はせっけんの香りが人気を伸ばしているそうです。あなたのお部屋はどんなにおいでしょうか。
 寒さの厳しい北海道の冬は、大掃除でもなければ窓を開けることはあまりないでしょう。換気装置を動かしていないかぎり、閉め切りにした部屋の空気はよどんでしまいます。そして、住宅毎のにおいが発生します。いわゆる生活臭と呼ばれるものです。においの発生源は、家具.住宅の内装に由来するものや体臭、化粧品、調理など目常生活に伴って発生するものなど多岐にわたっています。
 においは室内空気の汚染の警告でもあります。江戸川柳に「炬燵の屍猫もあきれて 顔を出し」というのがありますが、閉鎖空間の空気汚染には気をつけたいものです。

化学物質過敏症とアロマセラピー
 室内空気の汚染による健康影響として、シックハウス症候群が大きな社会問題となりました。シックハウス症候群は室内環境中のさまざまな環境因子によって生じる、目や鼻などの粘膜刺激症状や全身倦怠感、頭痛などの不定愁訴等の健康影響を指しています。種々.の環境因子の中で、特にホルムアルデヒドやトルエンなど建材に由来する揮発性有機化合物〔VOC)が注目されました。そして、厚生労働省により室内空気中化学物質13物質について、濃度の指針値が設定されるとともに、平成15年には国土交通省による建築基準法の改正(内装材に使うホルムアルデヒドの制限や換気装置の設置義務等)が行われました。
 当所では平成16、17年度に林産試験場や北方建築総合研究所と共同で建築基準法改正後の道内の新築住宅約90棟についての室内空気中化学物質濃度、気密性能、換気量の調査を実施しました。その結果、室内空気中化学物質濃度は指針値があるものについてはおおむね低減化が見られましたが、代替物質が使われるなど新たな問題点が明らかになり、化学物質の総量を規制することが必要だと考えられました。
 また、道内の住宅は高い気密性能が確保されていますが、その反面、換気量が不足している住宅が多いことも明らかになりました。閉め切りがちな冬季は.特に換気に注意する必要があります。
 シックハウス症候群と類似した症状を示す健康影響に化学物質過敏症があります。両者は混同されることがありますが、化学物質過敏症の人は、通常の人であれば全く症状を出さないような極微量の化学物質に反応し、さまざまな症状が現れます。これらは、アレルギーや中毒では説明できない病態と考えられています。
 化学物質過敏症の発症要因や病態などは不明な点が多いですが、過去に多量の化学物質に曝露したり、低濃度の化学物質を長期間にわたって曝露したりすることが原因の一つと考えられています。
 しかしながら、原因となる化学物質を特定することは困難な場合が多いのが現状です。症状がひどい患者さんの場合、症状を誘発する住宅から離れ、症状の軽減する住宅に転居せざるを得ない例が少なからずあります。私たちは症状が誘発される住宅と症状が誘発されない住宅の室内空気中化学物質濃度を比較することにより、発症に関与する化学物質を絞り込み、原因物質を推定する試みをしてきました。
 100種類ほどの化学物質を調べていますが、それでも原因物質を推定することは難しく、通常の住宅よりも化学物質濃度が低い場合も見られました。これは、患者さんが化学物質に注意を払って化学物質を含んだ製品の使用を極力避けたり、換気を頻繁に行ったりしているからだと解釈されています。
 化学物質過敏症の発症メカニズムについては20を超える仮説が出されていますが、これはいかに難しい病気であるかの現れでもあります。最近、ヨーロッパの研究者(ヘルツら、2006年)は化学物質過敏症を「不快な臭いに対するストレス回避のための条件付けされた学習行動」とする仮説を出しています。実際、住宅に由来する化学物質の曝露によって、種々の健康影響がもたらされた際に、その時に嗅いだにおいが苦痛や恐怖心と共に記憶され、後に同様なにおいをわずかでも嗅ぐと不快な症状が誘発されるということは起こりそうなことです。もちろん、化学物質過敏症のすべてがこの説で説明できる訳ではありませんが、この説に当てはまる場合は、環境改善だけでは症状を改善することは困難と考えます。においによって条件付けられた、不快感を取り除かなければなりません。
 心地よい香りによってストレスを和らげる手段として.アロマセラピーがあります。アロマセラピーは芳香療法とも呼ばれ、欧米では古くから親しまれており、現在でも補完医療として用いられています。日本でも最近、健康志向と生活の質の向上に関心が向けられ、ブームになっています。ミントの精油やラベンダーのポプリを部屋において、リフレッシュやストレス解消に役立てている人がいます。
 当所では北大医学部と連携してアロマセラピーを用いて、化学物質過敏症の症状を改善するための研究を計画しています。化学物質過敏症で苦しんでいる患者さんの助けになればと願っています。

■小林智〔こばやしさとし)氏
昭和31年生まれ。栃木県出身。昭利59年筑波大学大学院農学研究科修了。農学博士。同年北海道立衛生研究所勤務。生活科学部放射能科、同生活環境科を経て平成14年から現職。

 
 

この記事は「しゃりばり」No.301(2007年3月)に掲載されたものです。