北海道遺産「モール温泉」
北海道立衛生研究所健康科学部温泉保健科研究職員 青柳直樹

 北海道遺産とは、「次の世代へ引き継ぎたい有形・無形の財産の中から、北海道民全体の宝物として選ばれたもの」とされ、道民が参加し、民間組織である北海道遺産構想推進協議会(顧問:北海道知事、会長:北海道環境財団理事長)により選定されるというものです。
 平成13年から現在まで52件が選定され、平成16年に温泉として初めてモール温泉がその仲間入りをしました。ところが、モール温泉という言葉は、温泉に関する法律である『温泉法』や温泉の分析方法を示した『鉱泉分析法指針』(環境省自然環境局)の中には出てきません。モール温泉という泉質自体が定義されていないのです。では一体どのような温泉がそう呼ばれ、どのような効能があるのでしょう。

「モール温泉」とその効能
 もともと 「モール温泉」という言葉はドイツを中心としたヨーロッパにおける「モール浴」に由来しているようです。
 モールは「Moor」のドイツ語読みにちなむもので、亜炭(炭化の低い石炭一正式には褐炭)等の腐植質(念のために腐食質ではありません)を多く含有する泥炭を意味しています。モール浴の効能は肌への効果、具体的には肌の表面において、皮膚に必要なイオンの取り込み等の促進、細菌の発育抑制、あるいはヒアルロン酸(皮膚の水分を保持し、潤いや弾力を保つ作用等がある)を分解する酵素の抑制等が考えられています。
 このモール浴に使用される泥炭と同じような成分を含む温泉がモール温泉と呼ばれています。
 これらに共通して見られる感覚的な特徴として、まず色があげられます。浴槽の深さやその温泉水の成分濃度にもよりますが、澄明な褐色系の色をしています。また、臭いはほとんどありませんが、なかには木酢液を薄めたような香が僅かにするものもあります。入浴感としては肌がスベスベまたはツルツルになるといった表現がよく使われ、「美肌の湯」といわれることが多いようです。ホームページ上でも、「モール浴」と同様に「モール温泉浴」の肌への効果を謳った例を多く見かけます。
 ところが、ここで気を付けなければならないのは、モール浴とモール温泉浴は全く別のものであるということです。
 モール浴はこの泥炭を身体に直接塗るあるいはかけるものであり、いずれにしてもかなりの量の腐植質が直に身体に接することになります。それに対し、モール温泉浴によって直に身体に接する腐植質は、その濃度(温泉水1kg当たり数mg〜数十mg)からして僅かな量なのです。実際にモール温泉が肌にどのような効果があるのか医科学的に研究、実証した例はまだありません。しかし、貴重な地球からの恵みであるモール温泉に身を浸すとき、また他の温泉とは違った気分を味わえることも確かです。

モール温泉の指標となるものは
 温泉法で定義される温泉は「地中より湧出する温水、鉱水及び水蒸気その他のガス(炭化水素を主成分とする天然ガスを除く)」であることを大前提として、その温度が25℃以上または含有する特定成分が規定濃度以上であるものをいいます。
 また、含有する成分によってはその成分特有の泉質名がつきます。比較的分かり易い旧泉質名で表してみると、例えば湧出水1kg当たり2mg以上の総硫黄を含むものは硫黄泉または硫化水素泉、あるいは20mg以上の鉄を含むものは鉄泉または緑ばん泉といいます。モール温泉は俗称であるため、泉質として定義することはできませんが、仮に指標となるものをあてはめると腐植質が考えられます。
 腐植質には 「試料水中の塩酸で沈殿する有機物を腐植質とする」(『鉱泉分析法指針』 環境省)という定義があります。この塩酸酸性(pH2未満)で沈殿する腐植質は、フミン酸と総称される有機物です(ちなみに沈殿しないものはフルボ酸と呼ばれています)。このフミン酸はとても興味深い物質で、その起源は植物、微生物、プランクトン等の生物遺骸です。
 これらは環境中で化学的または生物学的に分解・重合作用をうけて褐色系の高分子物質群、即ち腐植質となるわけですが、その起源や存在環境は多種多様であるため、一つとして同じ腐植質は存在しません。つまり、腐植質を含有する温泉が異なる地域で湧出していれば、その地域の数だけモール温泉の種類があると言えます。
 北海道では音更町の十勝川温泉がモール温泉発祥の地として有名ですが、実際に道内の他の地域あるいは他の都府県には腐植質を含む温泉は存在しないのでしょうか。

モール温泉の科学的特徴とその分布
 当所では平成9年10月から腐植質の分析を行っており、これまでに北海道内で、33の腐植質を含む温泉を確認しました。これらを解析した結果、共通した科学的特徴があることが分かりました。
 その特徴は、
@温泉水の色に影響を及ぼす鉄イオンの濃度が低いこと
A(弱)アルカリ性で低張性(溶存物質総量が温泉水1kg当たり8g未満)に分類される温泉がそのほとんどを占めること
B泉質は(アルカリ性)単純温泉、重曹泉及び食塩泉が多いこと
等です。また、これらはほとんどが掘削した温泉井からポンプで汲み上げており、その7割は大深度(地下1000m以深)から湧出しています。その温泉は非火山性のものがほとんどです。
 つまり、モール温泉と考えられる温泉は平野部に多いことが分かります。実際に温泉水から腐植質が検出される地域は十勝平野、石狩平野に多く見られます。しかし、中には白老地域東部・樽前山の近くにみられる火山性と考えられるものもあります。
 北海道以外にも濃尾平野の三重県長島温泉や関東平野の特に千葉県及び東京湾を中心とする東京都、神奈川県地域に見られる「黒湯」等、今や大深度掘削井の広がりと共に全国的にその分布は拡大していると言えます。

科学的に見ても貴重な遺産
 十勝川温泉(モール温泉)と同じような温泉が、今日、北海道の各地で見られるようになった理由は大深度掘削の歴史と深い関係があります。
 1980年代から始まった温泉ブームは今も続いており、新たな温泉の開発はそれまでの温泉地周辺や都心部にも広がりを見せてきました。今までの火山性地域から非火山性地域(平野部)への開発のシフトは、地温の低さから必然的に大深度域への開発となり(通常、非火山性の平野部では100m深くなる毎に地温は約2℃上昇する)、特に平野部に泥炭地の多い北海道では腐植質を多く含む水を伴って湧出する温泉井が増えてきたのです。
 よく知られているように、地球上の水は、降水、浸透、流出、蒸発などの過程をへて、天から地にいたり、また天に舞いもどる無限の生々流転の旅(水文学的循環)を続けています。しかし、大深度域の地層は緻密で水の循環が遅く、化石水的なものが多いと考えられています。
 北海道の温泉を代表する登別や定山渓等、水の循環が比較的早い自然湧出泉や自噴井と比べると、その水量は水文学的及び地質学的に見て少ないと言えます。従って、これらの温泉水が一度枯渇してしまうと、その水量や温度の回復にはかなりの歳月を要し、再度回復させて利用しようとしても、それは不可能に近いでしょう。もう既に、過剰な開発により枯渇現象が見られ、掘削や揚湯量に対する規制がかけられた地域もあります。
 このように科学的見地からも、モール温泉は希少価値のある北海道民にとって大切にしていかなければならないもの(貴重な遺産)なのです。また、これらを有効かつ継続的に利用していくには、定期的な泉質や揚湯量等の調査を行うことが大切です。

青柳直樹(あおやなぎ なおき)氏
北海道旭川市出身。平成4年北海道大学大学院水産学研究科修了。平成6年北海道立衛生研究所勤務。放射線科学科を経て平成14年から現職。
 
 

この記事は「しゃりばり」No.292(2006年6月)に掲載されたものです。