北海道立衛生研究所生物科学部長 工藤伸一

 ヒトのからだは60兆個の細胞からなっているといわれています。個々の細胞はゲノムと呼ばれるDNAを持ち、そこには約22000個の遺伝子が暗号として記録されています。ここで一つの疑問が沸き起こります。からだの個々の細胞は設計図として同じDNAの遺伝子情報を持っているにも関わらず、例えば脳の神経細胞と肝臓の肝細胞で細胞の形が異なり機能が異なるのはどうしてなのか?
 その疑問に答える研究が最近では盛んに行われていて、エピジェネティクスと呼ばれる研究分野が注目を集めています。

細胞の中には働いている遺伝子と眠っている遺伝子があります
 エビジェネティクスは、遺伝学を意味するジェネティクスにその上を意味する接頭語の「エピ」がついています。この学問分野は、簡単にいえばゲノムのすべての遺伝子情報から必要な情報と必要でない情報とをどのように使い分けしているかを研究の対象としています。
 例えば手術で肝臓を1/3だけ残して切除したとしましょう。この臓器は再生能力が強く、しばらくすると切除したところを補うように肝臓が再生します。決して切除したところに脳や膵臓が再生したりはしません。もし肝臓に脳や膵臓が再生してきたら大変です。そうならないように、切除後に分裂を繰り返す細胞には、同じ肝臓の細胞がつくられる仕組みがちゃんと存在しているのです。
 実は、それぞれの臓器の細胞では22000個の遺伝子すべてが働いているわけではありません。また働いている遺伝子もまったく同じ種類の遺伝子ではなく一部は違っていて、どの遺伝子が働くかは臓器の細胞ごとに決まっています。
 例えば肝臓の細胞では、血液中のアルブミンをつくるための遺伝子が盛んに働いていますが、脳や膵臓の細胞ではこの遺伝子は眠った状態になっています。
 このように、必要な遺伝子が働いて、逆に必要でない遺伝子を眠らせる仕組みが細胞には存在します。この遺伝子を働かせたり眠らせたりする調節は細胞が分裂しても維持されているため分裂後も臓器の細胞の性質が保持されるのです。それでは、どのようにして遺伝子を働かせたり眠らせたりするのでしょうか?
 エピジェネティクスの研究から次のようなことが明らかになってきました。

遺伝子の活動を調節するメカニズムとは?
 遺伝子の暗号が記録されている糸状のDNAは、つなぎ合わせると2メートルの長さにもなります。この長さのDNAが細胞の核と呼ばれる格納庫の中にきちんと収まるために、DNAは糸巻きのような形をした蛋白質に巻かれて存在しています。この糸巻きはヒストンと呼ばれる蛋白質が集まってできています。
 実はこの糸巻きに巻かれるDNAの巻き具合が、遺伝子の活動をコントロールしていることがわかってきました。きつく巻かれている時は、遺伝子の活動がOFFの状態となり、眠った状態です。この状態のDNAからはメッセンジャーRNAは作られません。
 一方、ゆるく巻かれている時は、遺伝子の活動がONの状態となり、その領域のDNAからは盛んにメッセンジャーRNAが作られ、そのメッセンジャーRNAの情報をもとに蛋白質が作り出されます。
 こうしてDNAのヒストン糸巻きへの巻き具合によって、遺伝子暗号を読み取るかどうかが決められています。糸巻きへの巻き具合は、細胞の分裂後も保たれていて、働いている遺伝子と眠っている遺伝子の組み合わせは分裂前の細胞と同じ組み合わせになります。このように、それぞれの細胞ごとに遺伝子情報の利用が異なり、それらがきわめて正確に伝達されていることが明らかになってきました。

レット症候群という病気について
 エピジェネティックな調節メカニズムの異常によっておこる病気として、最初に報告されたのがレット症候群と呼ばれる遺伝子病です。この病気は主に女の子にみられ、女児の約1万−1万5千人に1人の割合で発症するといわれています。知恵おくれの原因としては女児ではダウン症に次いで2番目に多い先天性の疾患です。
 生まれてすぐには特に異常はみられませんが、1歳を過ぎた頃から症状が出始めます。それまでに覚えた動作(例えばスプーンを持ってロに運ぶ動作)ができなくなったりします。周りの人とのコミュニケーションも少なくなり自閉傾向が強くなります。その後、この病気の特徴的な症状として手洗いをするような動作(手揉み)や、手を口に運ぶ動作を繰り返すといった特異な繰り返し動作がみられるようになります。
 この病気はこれまであまり知られていないこともあって、脳性麻痺や自閉症などと間違って診断される場合もありますが、こうした繰り返しの動作がみられるようになるとレット症候群である可能性が高くなります。
 この病気の原因となる遺伝子が1999年に報告され、それがDNAのヒストン糸巻きへの巻き具合をきつくして、遺伝子を眠った状態にする蛋白質の遺伝子であることが明らかにされました。病気の原因がエピジェネティクスに関わる蛋白質の異常によって起ることが判明したことで、大変注目される疾患となりました。
 DNAのヒストン糸巻きへの巻き具合に関係する蛋白質は他にもあり、それらの蛋白質をつくる遺伝子の異常もいろいろな病気を起こすことがその後知られるようになりましたが、こうした病気の症状はそれぞれ異なっています。レット症候群の症状が主に神経症状であるのは、この病気の原因遺伝子が主に神経系で重要な役割を果たしているためのようです。
 レット症候群についての研究は目を見張る勢いで進められ、原因遺伝子の神経細胞内での役割が次第に明らかとなってきました。最近の研究では、脳内で神経細胞の機能を保つために働いている神経栄養因子という物質が、レット症候群では原因遺伝子の変異によって十分に機能していないことがわかりました。そこで神経栄養因子を神経細胞に適度に補うと症状が改善されることが動物実験で示されています。
 難病とされるこの病気について、現在、さらに詳しく精力的に研究が行われており、近い将来何らかの治療の手立てが導きだされることが期待されます。
 当衛生研究所では、これまでにレット症候群の患者で報告された遺伝子変異について、その影響を調べる研究を行っています。患者で見付かった変異をもつ蛋白質と同じものを培養細胞に作らせて、その働き具合をみて変異の影響がどの程度であるかを調べる検査法を開発して研究に用いています.この方法によって得られた結果は、この病気で将来どの程度の症状がでるかの判断材料となり、遺伝子診断の際に予後の推定に利用されます。
 また、先の話になりますが治療法の開発とともに、治療薬による治療を行う際にどの程度の量の薬を使ったらよいかを判定するための判断材料としても、この検査法で得られた結果が利用できるのではと考えています。
 エピジェネティクスにかかわる病気は、ここで取り上げたレット症候群の他にもICF症候群など幾つかの病気が知られるようになり、癌にも関係していると言われています。今後このエピジェネティクスの研究が、こうした病気の診断法、治療法の開発や予防対策などに貢献することが期待されます。

工藤伸一(くどう しんいち)氏
1982年旭川医科大学卒業、1986年札幌医科大学大学院博士課程修了、1986−1995年昭和大学フロリダ生物医学研究所、ラホヤ癌研究所で遺伝子発現調節機構の研究、1995年から北海道立衛生研究所で感染症と遺伝子病の研究に従事、2003年から現職。
 
 

この記事は「しゃりばり」No.291(2006年5月)に掲載されたものです。