感染病理科長 八木欣平

種を決めるということ
 山道をむこうから犬が歩いてきました。それを犬と認識することは子供でもできる簡単なことですが、よくよく考えると実はそれほど単純なことではありません。
 だいたい犬がどんな形をしているのか、またどんな種類があるのか、犬以外の動物がどの様な形をしているのか、というようなたくさんの情報があらかじめ頭の中に入っていないと判断できないのです。もし前から歩いてくるのが熊だとすれば、そのことを瞬時に判断しないと、おそわれるかもしれません。つまり、犬か熊なのかを判断するということ(種を決める)ということは、熊であればおそってくる(種に固有の性質を持っている)ことから、素早く逃げる(その危険を回避する)ために重要な活動という訳です。
 これは熊に限らず、病気を引き起こす病原体にもいえることで、寄生虫症の分野でも寄生虫の種を決めることは、最初にやらなければならない基本的且つ最も重要なことです。犬の場合と同様に、寄生虫を決めるためには形(形態)を観察することが最初の一歩なのですが、そのためには寄生虫の形についての幅広い知識と経験が必要となります。そしてここでお話しする遺伝子技術とは、これらの知識不足と経験のなさを補う優れた技術なのです。

ぬれぎぬ その1
 最近の若い人は、回虫と聞いてもどんな形をしているのか想像できないかもしれません。
簡単にいえば約15-30cmの細長くて、白色の大きなミミズのような形で、人から人に感染し、糞尿を肥料に使っていた頃の日本では、ごく普通の寄生虫でした。この回虫はいわゆるヒト回虫で、いまでも全世界の10億人以上が感染しているといわれています。この寄生虫は悪いことをするのですが、ひどい症状になることはまれです。
 しかし、北米のアライグマにはアライグマ回虫という恐ろしい回虫がいます。
 この寄生虫はアライグマの小腸に寄生しているのですが、その成熟した卵をネズミやウサギが食べると、小腸で幼虫にかえり、腸壁から侵入し、脳などにたどり着いて炎症を起こし、致死的な神経症状を引き起こすものです。人への感染も報告されており、北米では子供の死亡例が報告されています。この恐ろしい寄生虫が日本の動物園に輸入されたアライグマに寄生していたことが報告されました。
 北海道では手に余って(大きくなると性格が荒くなるらしい)放したり、逃げ出したりした元ペットのアライグマが野生化しています。この野生化したアライグマからも、回虫が見つかりました。
 恐ろしいアライグマ回虫発見か?
 当衛生研究所で遺伝子を調べてみたところ、この回虫のDNAは日本のタヌキ回虫の遺伝子と一致しました。その後の形態的な検査でこの回虫がタヌキ回虫であることが確認されました。つまりこのアライグマはアライグマ回虫を持ち込んだのではなく、日本でタヌキに寄生していたタヌキ回虫に感染したということがわかったわけです(ちなみにタヌキ回虫は人への病原性は認められていません)。
 このアライグマは恐ろしいアライグマ回虫の運び屋の汚名を着せられるところだったのですが、遺伝子診断の結果によりぬれぎぬだったことがわかりました。もちろんアライグマの農業への被害や、野生動物への影響を考えた場合、このような外来動物がはびこることは好ましいこととは思いませんが・・・。

ぬれぎぬ その2
 一昨年、北海道で、クリプトスポリジウムという寄生虫(原虫)が本邦4例目の集団下痢症をひきおこしました。
この寄生虫は、感染して下痢をしている患者や動物の糞便の中の約5ミクロン(千分の5ミリメートル)のオーシストという卵のようなものを口から取り込むことで感染し、小腸で増殖し、激しい下痢を引き起こします。普通の人であればその下痢も一週間ほどで自然に治るのですが、エイズや免疫不全患者では症状は慢性化し重症となる場合があるため注意が必要です。子牛の下痢症の原因の一つで、牧畜の盛んな北海道では、水源へのオーシストの混入が懸念されていました。
 下痢症の集団発生の連絡を受けて、衛生研究所では患者の糞便を検査しました。そして、この小さなオーシストを検出し、形と大きさからクリプトスポリジウムであると判定しました。
 われわれは、上水がこのような牛の糞便で汚染された可能性を予想しました。ところが、そのオーシストから遺伝子を取り出し、その配列を決定したところ、クリプトスポリジウムであることを確認しただけでなく、ヒト型クリプトスポリジウム(genotype I)であることがわかりました。牛で流行しているウシ型クリプトスポリジウム(genotype II)は牛にも人にも感染しますが、このヒト型クリプトスポリジウムは人にしか感染しません。すなわち、“牛犯人説”ははぬれぎぬで、ヒト型クリプトスポリジウムに感染した患者が、今回の流行の最初の原因であったと判断されたわけです。
 このように遺伝子の解析は、形による情報を補強するだけでなく、形の判断だけでは得られない情報を提供してくれるのです。

他の寄生虫への適用

 このような寄生虫の他、北海道ではエキノコックス症が有名です。このエキノコックス症は、有効な治療薬がなく、早期診断による早期発見と外科的な手術のみが有効な治療方法で、治療をしないと死亡するケースもある怖い病気です。北海道では野生のキツネとネズミで流行していますが、しばしば犬での感染も報告され、人への感染源として注意が必要です。
 この寄生虫は成虫(親虫・キツネや犬に寄生)、卵(キツネや犬の糞便の中に排出される)と幼虫(ネズミの肝臓に寄生)の3つの段階がありますが、形で決めることができるのは成虫と成熟した幼虫の段階だけです。とくにキツネや犬の糞の中に排出される卵は、他の近縁の寄生虫とは形では区別が付きません。
 糞の中の卵の検査は、キツネや犬のエキノコックス感染を知る手がかりになるのですが、これではどうしようもありません。しかしこの場合も、遺伝子技術を使えばその卵がエキノコックスのものかどうかを明らかにすることができます。
 北海道立衛生研究所では、このようにこれまで豊富な知識と経験が必要であった寄生虫の種を決める技術を、遺伝子解析の側面から補強し、より簡便で正確なものにするための技術開発を行っています。遺伝子技術を確立するために、新しい技術の導入や遺伝子情報の収集など、日頃よりたゆまぬ研究が続けられています。
 遺伝子による同定は、寄生虫の形態を全く知らなくても可能であり、わずかな細胞からでも、種を推定することができる非常に優れた技術です。
 しかしこのような遺伝子検査には、すくなくとも丸一日が必要です。向こうから熊がやってきたときは、遺伝子診断に頼らず、瞬時に形で判断して逃げることが賢明で的確な対処方法といえるでしょう。

八木 欣平(やぎきんぺい)
1978年北大獣医学部卒業。83年より衛生研究所に勤務、エキノコックス症、アニサキス症など、北海道における寄生虫症の調査研究に携わる。専門は寄生虫学。現在は主として寄生虫蠕虫の遺伝子による同定技術についての研究を行っている。
 
 

この記事は「しゃりばり」No.271(2004年9月)に掲載されたものです。